Saturday, 31 March 2018

タワー橋

1894年に造られた跳ね橋で、中央部分は90秒で八の字に開閉する跳ね橋です。ネオゴシック様式のタワーは、隣のロンドン塔の雰囲気に合わせてデザインされたそうです。
19世紀、テームズ川を通って一週間に150隻の船が。世界一忙しい貿易都市ロンドンに入ってきました。当時は海上輸送が交易の要で、埠頭では植民地からの積み荷が上げ下ろしされていました。ロンドン・ブリッジとロンドン塔の間の地区はイングランドの貿易と富の中心として急速に発達しました。ところが、ローマ時代にできたロンドン橋より東には橋がなく、ロンドンの東側に住む一般市民たちが川を渡る際は、いったんロンドン橋まで来なくてはならず、非常に不便でした。イースト・エンドの道は常に渋滞していました。
ロンドン市議会でも、長い間この問題に関して検討されましたが、新しい橋を造ることによって、さらに船の混雑を生み、食料品が腐るなど貿易上の損害を与えることになるという意見もあり、なかなか結論が出ませんでした。シティの主任建築士のホレス・ジョーンズが、橋板が開閉し、高いマントを張った船も自由に行き来ができる跳ね橋案を提出して問題は解決、歩行者用の道を橋の上につける案も加えられました。そして、タワー橋は1886年に着工、1894年に完成することになったのです。
エンジンルームでは、1976年まで橋の開閉の動力として使用されていた水圧ポンプや蒸気エンジンシステムを見学できます。現在は電動で動く橋ですが、1894年から1976年までは水圧動力が利用されていました。  

Friday, 30 March 2018

ロンドン塔

ロンドン塔は今から900年前、フランスのノルマンジーから来たウイリアム征服王が、ロンドンを守る要塞として、また自分が住む宮殿として建てました。ローマ時代から1000年の歴史があり、貿易港として栄えていたロンドン市とは戦うよりも条件付で仲良くした方が得だと考えたウイリアムは、シティーを守るというたてまえで、実際にはここに要塞を造りプレッシャーをかけていたのです。石造りの大きな塔が築かれ、ロンドン塔と名づけられました。そこは現在ホワイト・タワーとして知られています。
ホワイト・タワーは西暦1078年から1097年にかけて造られました。高さ27.4mで、壁の厚さは基部で4.6m上部で3.3mと非常に厚く造れれています。建物のほとんどはロンドンの南東にあるメイデンストーン付近で切り出される石灰石で造られていますが、窓枠と建物の角の部分の石はフランスのノルマンディーで産出されるカーン石を使っています。美的効果と風化防止のため、壁には的に石炭塗料が塗られたため、ホワイトタワーと呼ばれています。
王宮と要塞を兼ねた城という目的で建てられ、2階と3階は国王の部屋、1階部分は守護隊を指揮する武官長の住居でした。また、地階には食物貯蔵室と井戸がありました。正面玄関は900年前のままで、簡単に進入できないように高いところに造られており、非常時には梯子は取り外されました。
建物の四隅には小塔があります。3つは四角形ですが、北東にある小塔は内部に螺旋階段があるため円形です。17世紀にグリニッチ天文台ができる前の数ヶ月、天体観測者のフレムスティードがここで天体観測をしていました。ノルマン時代の塔には円錐形の屋根がついていましたが、16世紀の初めドーム形の屋根になりました。1715年に窓は拡大されましたが、オリジナルのノルマン時代の窓は正面玄関の上の最上階に2組だけ残されています。
ホワイト・タワーの中には聖ジョン礼拝堂があり、ノルマン教会建築の代表で、ロンドンに残っている一番古い建物になります。ノルマンディーから運んできたカーン石で建てられており、王の礼拝堂として使われていたころは壁画が描かれ、窓にはステンドグラスがはめられていましたが、現在は何の装飾もなく素朴な美しさがあります。

その後何人かの王によって拡張工事が行われました。君主にとって砦や住居であるばかりでなく、宝物、兵器、囚人を収容する場所でもありました。13世紀の王ヘンリー3世は立派な宮殿を新設したり、動物園を設けたりしました。そこにはフランスから贈られた象、神聖ローマ帝国から贈られた豹、ノルウェーから贈られた白熊などが飼われていました。19世紀にロンドン動物園ができるまで、ここではライオンなどの動物が飼われていました。
反逆者の門ができる前は、ブラディー・タワーの門塔が水門を管理していました。門には、敵の上に熱い油を落としたマーダーホールや、現在でも使用可能な落とし格子があります。この建物は14世紀に造られ、高級宿泊施設として使われ、賓客用寝室もあったようです。かつては、隣接して庭があったので、ガーデン・タワーと呼ばれていましたが、15世紀にエドワード5世が殺害されてから、血なまぐさい塔と呼ばれるようになりました。 現在サー・ウォルター・ロリーが17世紀に13年間幽閉生活を送った当時と同じように家具を配置してあります。彼は、英国にタバコとジャガイモを持ってきた人です。ジェームス1世の囚人として幽閉されたのですが、驚くことには奥さんや子供と暮らすことや召使をもつことが許されており、幽閉中に子供を作っています。また、ここで「世界の歴史」を執筆しています。
反逆者の門」と呼ばれる水門は14世紀に造られました。ロンドン塔に住んでいる人たちに食料は燃料を供給するための水門として使われていました。しかし16世紀、ヘンリー8世王の時代になりますと、国事犯のほとんどが舟で運ばれ、この門からロンドン塔に投獄されるようになりました。このころから反逆者の門と呼ばれるようになりました。昔は今の国会議事堂にあるウエストミンスター・ホールで、ほとんどの裁判が行われ、囚人たちは舟でロンドン塔に運ばれて来ました。囚人といっても、ほとんどが身分が高い反逆者、つまり王様に逆らった人たちです。 中世にはロンドン塔は囚人を収容する牢獄ともなっており、王の敵とみなされた貴族たちや、戦いで捕らえられた外国の王が囚われていました。16世紀のヘンリー8世の時代に最も牢獄として使われ、次第に王宮としての役割を失っていきました。昔、楽しみがあまりない時代は、公開処刑というのはエンタテイメントでした。処刑がある日には、たくさんの人が仕事を休んで見学に来ました。ロンドン塔の囚人の処刑も、ほとんどがタワー・ヒルというロンドン塔の外側で執行されています。 身分が高かった7人は、ロンドン塔内で密かに処刑されました。そのうち5人が女性で、そのうち2人はヘンリー8世の后でした。2番目の妻アン・ブーリンは男の子を産まなかったということで処刑されています。当時の処刑は斧を使って行われましたが、斧は切れにくく、一回では死ねなかったりしたので、アンは特別に良く切れる剣で首を切ってくださいと王にお願いしました。良く切れる剣が英国にはなかったので、フランスからわざわざ剣と剣使いを招いて首を切ってもらったといわれています。アンはかなり現世に未練があったらしく、夜になるとアンの幽霊が切られた首を持って、タワー・グリーンをさまよっているそうです。 5番目の妻キャサリン・はワードは姦通罪として処刑されますが、死ぬ前に「王妃としてではなくトーマス・カルペッパー(浮気の相手ですでに処刑済み)の妻として死にます」と言い切って亡くなっています。また、彼女の浮気を手伝ったロッチフォード伯夫人のジェ-ンもキャサリンと同じ日に同じ場所で処刑されています。
メアリ1世の時代には、カトリックのメアリを戴冠させたくないプロテスタントの人々が、メアリの従姉妹のジェ-ン・グレイを女王にしようとしますが失敗します。ジェ-ンは16歳の若さで処刑されてしまいます。 そのあと妹のエリザベス1世も幽閉されています。

ロンドン塔内には王の宝物を収める宝物殿、公文書をしまう保管所、金貨や銀貨を鋳造する造幣所、王の軍隊のための兵器庫といった施設がありました。昔、即位の宝器はウエストミンスター寺院に収められていました。1649年のチャールズ1世の処刑の後、議会は即位の宝器をロンドン塔に移すように命じ、貴金属は貨幣鋳造のために溶かされ、宝石は売却されました。17世紀のチャールズ2世は英国王の権力を一般人に印象付けるため、即位の宝物類や歴史的な武具や甲冑を一般公開しました。
聖エドワード王冠 - 1661年のチャールズ2世の戴冠式用に作り直されました。聖エドワード王冠は戴冠式のためだけに使われます。何十年に1回、それも戴冠式のクライマックスにほんの10分間被るだけなので、宝石は式の前に宝石商から借り、式典の後に返却するそうです。純金で重さは2.3kgもあります。
王しゃくー世界 - 大きなカット・ダイヤモンド530カラットの「アフリカの星」がついています。原石は3106カラットのカリナン・ダイヤモンドで、1905年に南アフリカで発見されました。
帝国王冠  - 正面にはカリナン・ダイヤモンドからカットされた317カラットの「第2のアフリカの星」、その上には1367年に黒太子に贈られたバラスルビー、一番上にはエドワード懺悔王の指輪からとったといわれるサファイヤ、そして2800個のダイヤと王粒の真珠で作られています。現在毎年秋に行われる国会開会式のときにエリザベス女王が冠ります。
クイーン・マザーの王冠  - 正面に106カラットのコヒヌ-ル・ダイヤモンドがついています。このダイヤモンドはインドで発見され、ムガール帝国皇帝の持ち物でした。男性が身につけると不幸になり、女性が身につけると幸福になるという伝説があります。
ヴィクトリア女王の小冠 - ヴィクトリア女王は小柄であったため、帝国王冠が大きすぎて好きではなく、ネックレスのダイヤモンドを利用して林檎サイズの小さな王冠を作らせ、好んで使用していました。
ワインクーラー - 144本のワインを冷やすことができる大きな金色(銀製)のワインクーラーはジョージ4世のために造られました。
タワー・グリーンでは毎朝11時には衛兵が交代式を行なっています。衛兵が守っているということは、ここはまだ王室の宮殿としての役割を持っているということを意味しています。木骨造りの家は16世紀に建てられたものでクイーンズ・ハウスと呼ばれ、現在し守備隊司令官の宿舎になっています。昔、ここには武官長副官が住んでおり、副官による直接の監視下、身分の高い囚人が数多く収容されました。16世紀のヘンリー8世の2番目と、5番目の妻も、ここに投獄されました。1605年の国会開会日に議事堂を国王もろとも爆破してしまおうとした火薬陰謀事件(結局失敗します)に参加したガイ・フォークスは、このクイーンズ・ハウスで取調べを受け、拷問を受けました。囚人の中には処刑の前の日にまんまと脱走した人もいます。スコットランドのニッダ-ル伯で、1715年に反乱に加わって死刑宣告を受けていましたが、妻が密かに持ちこんだ女性の衣装を着て脱出しました。この人は身長180cmで顔には髭があり、どうやって監視員が見逃したのか不思議です。このクイーンズ・ハウスに収容された最後の囚人はナチス・ドイツのルドルフ・へス副総統で1941年に拘禁されました。
ロンドン塔というのは今でも小さな村を作っています。ヨーメン・ウォーダ-は外壁沿いに住んでいて、兵隊は宝物館の上にいます。ビーチャム・タワーの隣にはお医者さんが住んでおり、教会には神父さんがいます。教会は日曜ごとに礼拝が行われており、洗礼式や結婚式も行われています。教会は昔ロンドン塔内やタワー・ヒルで処刑された人たちの首なし死体の埋葬場所でもあります。 現在約40人のヨーメン・ウォーターがおりますが、いずれも22年以上の軍務歴を誇る陸海空軍の退役准尉が推薦されてなります。一般にビーフイーターと呼ばれていますが、牛肉を食べて栄養満点だったからだとか、毒見係として王様の肉を食べたからだとか言われています。家族と一緒にロンドン塔内に住んでいます。
昔から、門の管理と、囚人の管理は国王自ら任命する守衛隊がやっており、ヘンリー8世時代から君主付の護衛兵と同じように近衛兵に数えられており、制服を身につけることを許されました。普段は紺色のヴィクトリア時代のデザインの服を着ていますが、行事があるとチューダー時代の赤字に金色刺繍の服を着ます。胸にはE&Rと書かれておりRegina Elizabeth(エリザべス女王のラテン語)の意味です。
ロンドン塔には通常6羽のカラスが飼育されています。この塔ができたころからカラスはいましたが、初めは台所から出たゴミを食べていました。17世紀チャールズ2世の時代、ここには天体観測所があり、カラスが邪魔なので追おうとしましたが、「ロンドン塔からカラスがいなくなればロンドン塔は倒れ、王国も没落する」と言われ、それから大切に保護されています。ヨーメンウォーダーの中にカラス係がいて世話をしています。夜は檻に入れられ、飛べないように羽を切られます。カラスのえさは、卵、生肉、ビスケット、ウサギの頭、そしてフルーツです。ロンドン塔で一番待遇がいい囚人といわれています。

Thursday, 29 March 2018

セントポール大聖堂

1981年のチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式に使われた教会です。
ロンドンで一番大きな教会で、ドームの上の十字架は地上111mの位置にあります。建築様式はバロックですが、西側はギリシャ建築様式で、コリント式柱が見事な調和を見せています。セント・ポールとは聖パウロのことで、建物の上部にある破風には聖パウロの改宗の図が描かれています。破風の上には、聖パウロが刀を持った像があります。その左には聖ペテロが鶏と立っており、右側には聖ヤコブがいます。その一段下には福音書で有名なマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの像があります。
時計塔の中には17トンのグレート・ポールという鐘があり、1日に1回だけ、午後1時に5分間鳴ります。みんなが時計を持っていなかったときに、お昼の時間を知らせたといわれています。また、王族やカンタベリ-大司教、ロンドン司教、ロンドン市長の死も伝えます。もうひとつの鐘、グレート・トムは毎時鳴ります。
教会の歴史は7世紀ローマから布教にきたメリタスが、ここに木造の教会を作ったことから始まります。その後何回か焼失、再建が繰り返されます。13世紀に大規模なゴシック様式の教会が建てれ、14世紀初めには長さ180m、尖塔の高さ150mというヨーロッパ最大の教会が完成しました。しかし、その教会は1666年9月のロンドン大火で焼失してしまいます。
現在の教会は1675年から1710年にかけて建設されました。設計士のクリストファー・レンは、50以上の教会や宮殿などを建てた有名建築家で、シンプルな内装を好み、なるべくたくさんの光を教会の中に入れるように工夫しました。窓が大きく、ステンドグラスが入ってないのも、天井が白いのも、17世紀のオリジナルのままです。
ドームの中の天井画は17世紀にジェームス・ソーンヒルが聖パウロの生涯を描いたものです。3年間ずっと天井と向かい合って絵を描いていた作者のことを想像してみてください。柱と柱の間にあるモザイクは新約と旧約聖書の聖人が4人ずつ描かれています。
聖歌隊席上のモザイクは19世紀にクリスタルを反射させて光るようにして作ったもので、主の想像した万物(森の獲物、海の魚、空の鳥)が描かれています。
この教会は記念礼拝などにも使われますが、チャーチルなど著名人の葬式も行われました。地下には100の墓、500の記念碑があります。ワーテルローの戦いでナポレオン軍を破ったウエリントン将軍、トラファルガー海戦で亡くなったネルソン提督の墓もあります。画家のコーナーには、ターナー、レイノルズ、ローレンス、ミレー、ハント、レイトン卿など19世紀に活躍した画家の墓があります。この教会を設計したクリストファー・レンの質素な墓もあり、墓碑にはラテン語で「記念碑を見たければ、周りを見よ」とあります。レンを思い出すのに墓ではなく、作品(建築物)を見てほしいという意味でしょう。
毎日平日は17時、日曜日は15時15分から聖歌隊による詠唱があります。一般の方も参加できますので、興味がありましたらいらしてください。

Wednesday, 28 March 2018

ウエストミンスター寺院

英国の信仰の中心として、王や偉人の歴史を語る上でウエストミンスター寺院は忘れてはならない存在です。この教会は王室直属の教会でカンタベリー司教区の管理外にあります。
ウイリアム征服王からエリザベス2世まで900年間、ほとんどすべての王の戴冠式がこの寺院で行われました。結婚式やお葬式など王室行事にも使われ、現在の女王様はここで結婚式を挙げました。ここで行われた1997年のダイアナ妃のお葬式をテレビでご覧になった方も多いことでしょう。
また教会の中には3000の墓と400の記念碑があり、18世紀半ばまでの王族、貴族が葬られています。有名な科学者のニュートンやダーウィン、音楽家のヘンデル、小説家のディキンズの墓などがあり、有名な政治家などもたくさん埋葬されたり、記念碑があったりします。この教会は現在も毎日の礼拝に加え、王族の冠婚葬祭、偉大な政治家や名詞の追悼式に使われます。
この教会の歴史は7世紀にさかのぼります。その頃このあたりは川に囲まれた茨の島と言われており、伝説によるとここに東サクソン王のシーベルトが聖ペテロを祭る教会を立てたのがウエストミンスター寺院の始まりであると言われています。この教会の正式名は今でも「ウエストミンスターにある聖ペテロ教会」です。その後ベネディクト派の修道院になり、11世紀には隣に宮殿を立てたエドワード懺悔王が聖ペテロ教会を自分の埋葬の場所として再建、ロマネスク調の当時としては最高に壮麗な教会ができました。1066年にエドワードは亡くなり、予定通り寺院に葬られ、同じ年ウイリアム征服王の戴冠式が行われました。以来王家の冠婚葬祭の場となり、エドワードが死んで100年、聖人の仲間入りをする頃には巡礼の絶えざる聖地となりました。その後13世紀にヘンリー3世がフランス風に改築しますが、お金がなくなり、身廊が完成するまでに120年間かかります。16世紀に東側、18世紀に西の塔ができ、現在の姿になるまで、延々500年間の増築、放置、改築が繰り返されています。

Tuesday, 27 March 2018

バッキンガム宮殿


バッキンガム宮殿は、エリザベス女王のご住居であり、数多くの公式訪問を受けられる、英国で最も重要な公式宮殿です。
バッキンガムの歴史は今から約250年前に、ジョージ3世がバッキンガム公爵から館を買い取ったことから始まります。今でこそロンドンの街の中心に位置するバッキンガム宮殿ですが、当時はロンドン郊外の田園風景の中に建つ屋敷でした。バッキンガム・ハウスと呼ばれるレンガの館で、ジョージ3世とシャーロット妃は8歳のモーツアルトの演奏を聞いています。
19世紀になるとジョージ4世はここを宮中会議や政務を行うことができる壮麗な邸宅にすることを考え、建築家のジョン・ナッシュに改築を依頼しました。夏の一般公開で、ご覧いただくことができる公式広間のほとんどがこのナッシュの設計によるものです。ナッシュは独特の天井デザインを次々に生み出しました。
ヴィクトリア女王とアルバート殿下との間に9人の子供が生まれると、国家政務と家庭生活の両方の機能を果たすには宮殿は手狭になり、エドワード・ブロアによって東側、ジェームス・ぺネソーンによって西側に舞踏室や夜会室が増築されました。メンデルスゾーンはヴィクトリア女王が最も好んだ作曲家で、彼は舞踏室で3度演奏しています。
現在、エリザベス女王とエジンバラ公は宮殿の北側にあるプライベート・アパートメントにお住まいです。バッキンガム宮殿には迎賓館として使われる公式の間が19、王族の寝室が52、スタッフの寝室が188、事務室92、トイレ78あり、350人が勤務しています。
30エーカーある庭は、19世紀初期に造園された風景式庭園で、自然にそった植林を行ない、人工池を作りました。ガーデン・パーティーが年4回行なわれ、毎年8000人が招待されます

Monday, 26 March 2018

ヘンデルの家


作曲家のヘンデルが1723年から1759年に亡くなるまで住んでいた家が、博物館として公開されています。
ジョージ・フレドリック・ヘンデルは、1685年2月23日にドイツのハレで生まれました。ヘンデルはドイツ北部のハノーバー選帝侯の宮廷楽長の地位にあったにもかかわらず、1712年の秋からイギリスに滞在し、ロンドンで活動をしていました。当時のアン女王に気に入られ、国の祝祭行事のための音楽の作曲を依頼されたりして、居心地がよかったため、ハノーバーにずっと帰っていませんでした。
ところが、1714年、イギリス国王であったアン女王が突然なくなり、ハノーバー選帝侯のゲオルク・ルードヴィッヒが、ジョージ1世として英国国王になり、ハノーバー宮廷の側近たちとともに、イギリスの地を踏んだのでした。ハノーバーの宮廷楽長の職務を2年近くもほったらかしにしていたヘンデルは心穏やかではありませんでした。何とか関係を修復する手立てはないかと考え、1715年、ジョージ1世がテームズ川で舟遊びをしたおり、大勢の演奏家を乗せた船を国王の船のそばに近づけて、「水上の音楽」を演奏しました。このことがヘンデルの名を高め、また国王と和解できたきっかけと言われています。
ヘンデルはこのブルック・ストリートの家で、「花火の音楽」「メサイア」などの代表作を生み出し、自作のオペラのためのリハーサルも行ったそうです。ヘンデル・ハウスでは実際に彼が作曲に使っていたハープシコードや彼が亡くなった時にも使っていたベッドなどを見ることができます。毎週木曜日の夕方には、バロック音楽のライブ・コンサートも行われています

Saturday, 10 February 2018

ヒンズー教の神々

インドという国名が「ヒンドゥーの国」を意味することでも分かるように、ヒンドゥー教は宗教というより、インドそのものです。現在、インドの全 人口の82%を占めるヒンドゥー教は、紀元前1500年ごろにインドに侵入してきたアーリア人のバラモン教と、土着の信仰が結びついて発展しました。開祖 がいて、教義がある宗教ではなく、土着の神々を取り込んでいく過程で、つじつまを合わせるために、神々の結婚や化身が取り入れられ、いるのまにか八百万の 神の教義が存在することになってしまいました。他宗教の神も取り込んでしまうヒンドゥー教は実に寛容な宗教で、それぞれの神様を通して人は宇宙の聖なるも のとつながるという考え方を持っています。
ヴィシュヌ神
世界の維持、繁栄をつかさどる神で、温和で受動的な性質。熱心に信仰を捧げるものに対しては必ず恩恵をもたらします。4本の手にはほら貝、円盤、棍棒、刀を持っています。弓や蓮を手にすることもあります。聖鳥ガルーダに乗って飛翔します。
世界の救済のために10の化身になります。
①魚(大洪水から救う)
②亀(不死の霊薬をもたらし神々を救う)
③猪(その牙で沈んだ大地を持ち上げる)
④人獅子(恐るべき魔神を退治する)
⑤倭人(体を巨大化させ魔王を打倒する)
⑥斧を持つラーマ(武士階級を一掃する)
⑦ブッダ(誤った思想を説き魔人を地獄へ導く)
⑧カルキ(世界に正義をもたらす英雄)
⑨ラーマ(インドの国民的英雄)
⑩クリシュナ(怪力で武勇に優れ美貌の持ち主)
シヴァ神
再 創造のための破壊神です。過激で、能動的。恐ろしさと、粗暴さの象徴です。人間の姿をとるときは、4本の手を持ち、斧、太鼓、雌鹿、紐を持っています。武 器は三叉の鉾です。高く結い上げられた髪は左右に長く垂れ、両肩にかかり、頭には三日月が飾られ、首や胴の周りに蛇を巻きつけています。額の中心には第3 の目がついています。乗り物は白い雄牛(ナンディー)です。
宇宙の想像と破壊を表す舞踏を踊るとされ、南インドでは多くのブロンズ像が造られています。火炎輪を背に、毒蛇を首に巻き、魔物(アスラ)を踏みしめて、軽やかなステップを踏みます。さらに生殖の原理としても崇拝され、円筒型の男根(リンガ)の形で表されます。
ガネーシャ神
シヴァ神とパールヴァティー妃の間の子で、三日月や蛇というシヴァ譲りの持ち物を持つこともあります。小さなねずみが乗り物。

Friday, 20 October 2017

V&A ヨーロッパギャラリー

ルネッサンス

古代ローマ人の建築が再評価された。

後期ルネッサンスに活躍したのが、アンドレア・パラディオ。
古典建築の神殿風柱と切妻屋根が特徴で、
貿易で富を蓄積した大商人たちから絶大な支持を受けました。
貴族や富裕な商人たちは、イタリアの宮殿風の壮大な邸宅を建てました。
室内壁面をオークの板張り、天井は漆喰の豪華なくり型で飾り、
飾りだなつき暖炉が部屋中心となる構成でした。
メロン飾りの柱で、天蓋を支えた寝台。
ノンサッチ・チェストと呼ばれる収納たんす。
メロン飾りの脚に、市松模様の象嵌装飾をした引き伸ばしテーブル
ボビン・チェア
ファージンゲール・チェア(大きなスカートの型がくずれないように肘掛を取り除いた)
イニゴ・ジョーンズのバンケティング・ハウス

バロック
バロックは反宗教改革のローマで始まり、フランスやオーストリアの宮廷で発展します。
曲線的で豪華な装飾性、堂々とした表現、対象性が特徴です。
ピューリタン革命の間、質素な生活様式が強制的に志向されていたイギリスでは、
王政復古になると、人々は快楽を求め、華やかさがよみがえりました。
家具の主要な材料はオークからくるみに代わった。
キャビネットの表面を総称する技法は、彫刻ではなくくるみの化粧張りと寄木細工。
全体を華麗なタピストリーで張り包みしたウィング・チェア。
キャブリオルというS字型の彫刻された曲がり脚。
飲茶が流行すると、ティーテーブルが造られた。
グリンリング・ギボンズの彫刻が流行した。
婦人の寝室で使用される書き物と化粧ができるキャビネット。
衣装を収納する引き出しつきの大型衣装たんす。
天井に届くほどの高さの天蓋からタピストリーのカーテンを吊るした寝台
上流社会ではお茶を飲む習慣が始まり、ティー・テーブルができた。
カードや賭け事が流行し、カード・テーブルや、ゲーム・テーブルが作られた。
鏡とサイドテーブル。

ピエトラ・ドゥーラ。
椅子の背は高くなり、先端と前足の間に透かし彫り装飾、椅子の座と背に藤張りを採用することが流行した。
ルイ14世風の豪華な寝台。

変化を求めるバロックは、都市空間の中で舞台装置のような役割も担い、
遠近法など奥行き感を強調する手法が発展。
波型の曲面、ねじれた柱、装飾的2本の双子柱を用いるなど、
斬新なデザインが生まれました。
クリストファー・レンのセント・ポール大聖堂

パラディアン風
室内のフリーズ、破風、イオニックの柱つき、壁のデザイン。
マホガニー。

ロココ
フランスではルイ14世が亡くなると、厳格な礼儀作法や宮廷儀礼に対し、

私的な生活を快適にするという生活様式が生まれました。
18世紀にフランスのサロンで発達したロココ文化は優美、洗練、貴族的でした。
軽快・華麗・非対称を特徴にし、アラベスクなどの植物モチーフの曲線や渦巻き装飾が多用されます。
イギリスでも貴族の間で、フランス貴婦人の優雅な姿にあこがれてロココ朝衣装を愛好する人がいました。
ポンパドール夫人を代表とするロココ・ファッションはドレスとスカートと胸当てが一揃いになっており、
リボン、造花、レースなどで飾り、その上に、ブレスレット、ブローチ、ネックレスを付けます。
靴はかかと部分が覆われないミュールです。
細い胴と腰のふくらみが貴族調を表現する主要素だったので、コルセットの技術は精巧になります。

スカートを広げるためのペチコートも、はじめ釣鐘上の巨大なものが流行しましたが、
不便をきたしたため、左右に拡大し、前後の厚みをできるだけ短縮したパニエという楕円型のものが流行しました。
ジュエリーも非対称デザインで、リボン、羽、花、葉といったモチーフが多用されます。
シノワズリ(異国趣味)の漆塗りの家具の流行。

イギリスでは・・・
イギリスでは、田舎の領地でのどかな田園生活を送る、フランスの豪華な宮廷衣装とは一味違った
カジュアルで実用的なファッションが発達しました。
産業革命の中で市民階級が勢力を伸ばし、価値観にも変化が現れつつありました。
男子服の二部形式を女子服にも取り入れた、ジャケット式上着が採リ入れられています。
ペチコートはすたれ、コルセットも和らげられました。
18世紀になるとロンドンなど都会に人口が集中し始めました。
限られた土地に人間が効率的に暮らせるように、テラスハウスや、タウンハウスと呼ばれる集合住宅が発達しました。
ベッドフォード・スクエアなど

新古典
1748年のポンペイの古代遺跡の発掘を契機に、古代芸術への関心が高まり、
古代ギリシア・ローマを模倣する新古典様式が流行しました。
フランス革命後、服飾様式も一変し、ギリシア風が流行しました。
素肌に白いモスリンのワンピースを着るシュミーズ・ローブは、コルセットなどを使用しません。
白モスリンは、インドの安い材料を使って、英国で産業革命が進行する中、機械生産されるようになったもので、
ヨーロッパへ輸出され、大流行になりました。
ジュエリーでは月桂樹や花綱飾りや垂れ綱飾りが多用されます。
女性の髪の毛は後に引き上げられて耳が露出したので、大きなイヤリングが使われました。
ネックレス、イヤリング、ブローチ、ブレスレット・ティアラなどを同じ素材、同じデザインで作ったパリュールが流行します。
古代を意識してカメオが多用されました。
装飾に蓮区の飾り綱、メダリヨン、スフィンクス、壷といったモチーフが、壁や家具の装飾として用いられた。
彫刻は浅く平面的に処理し、淡い色調を好んで用いた。
背もたれに卵形、ハート型、盾形を用い、直線の先細りした脚。
ローマの大理石の玉座のような椅子、丸テーブル。
モノポディアムと呼ばれる動物の頭と爪足からなる足型がテーブル、サイドボードなどの支柱として流行。
カウチ(寝椅子)
ロバート・アダム

ヴィクトリア時代
上流階級と中産階級はこれまでにない豊な生活に恵まれました。
家庭生活を大切にして、快適な生活を送るために、過去の装飾様式を統一もなく取り入れました。
スプリングを入れ、豪華な布地で全体をふっくら張り包みにしたソファーが愛用されました。
鉄製品が家庭用設備として広く利用され、鉄製の椅子や寝台なども製作されました。
ウイリアム・モリスは家具、タピストリー、壁紙、ステンドグラス、織物などをデザインしました。
フランスの王政復古時代に再び貴族調が好まれて、19世紀半ば頃に巨大なスカートが発展します。
クリノリンという大型ペチコートと強いコルセットによるスタイルで、新興成金の間ではやりました。
1870年代にはスカートの後半分を張らせるクリノリン、80年代には腰の部分だけを膨らます腰当形式となり、
これを最後に道具を用いた技巧的シルエットの流行はなくなりました。

タワー橋

1894年に造られた跳ね橋で、中央部分は90秒で八の字に開閉する跳ね橋です。ネオゴシック様式のタワーは、隣のロンドン塔の雰囲気に合わせてデザインされたそうです。 19世紀、テームズ川を通って一週間に150隻の船が。世界一忙しい貿易都市ロンドンに入ってきました。当時は海...