Sunday 6 August 2017

中東の陶磁器の歴史

シルクロード唐の時代になると、中国各地の窯で陶磁器が盛んに作られるようになり、シルクロードを通って運ばれました。陶磁器の輸送にあたっては、海のシルクロードが主役を果たしました。重くて割れやすい商品の輸送には、陸路より海路の方が向いていました。しかし、当時の船は季節風を待って航海したため、中国とアラビアの間を往復するのに、普通は4年かかったそうです。海難も多く、輸送コストは高いものでした。ですから、磁器は同じ目方の黄金の器と交換されたなどどという伝説が生まれたくらいでした。中国の磁器は、イタリア商人によってヨーロッパに持ち込まれ、王侯貴族、高位聖職者、豪商だけが磁器を持つことができ、ステイタス・シンボルになっていました。
青花
シルクロードの中間地点のペルシアでは、何とかして中国と同じ白磁を作りたいと思い、いろいろとやってみましたが、どうしてもできませんでした。9世紀のアッパース朝では、陶器の全面に錫釉で化粧がけをして(焼くと錫釉は真っ白になる)、コバルトで絵付けをした、見た目は中国の「青花」のように見える陶器を作る方法を考え出しました。これは、イスラム文化と共にイベリア半島に伝わりました。
ラスター
ラスターとは「光沢」という意味です。9世紀にダマスカスで生まれヨーロッパではイスラム文化と共にイベリア半島に伝わって、12世紀ごろから盛んに作られるようになりました。透明な釉薬をかけて焼いた陶器(地はクリーム色)の表面に、酸化銅の粉末と黄土を練り合わせたもので絵付けをしました。偶像崇拝を禁じているイスラムでは、主に草花、文字(カリグラフィー=書体デザイン)、幾何学模様(アラベスク=植物文様をさらに抽象化したものです)を描きました。もう一度窯に入れ、還元炎(窯の温度が上がってから空気の供給を少なくし、黒い煤がうんと出るようにした炎)で焼きます。酸化銅は還元され、金属銅の微粒子になって、透明な有益の表面に固着します。それが光線の加減や、見る方向によって、赤っぽい金色にか彩至り、玉虫色に微妙に色調を変えたり、暗褐色に見えたりします。豪華に見えるため、昔は王侯貴族の間で人気がありましたが、日用に使っていると絵付けが次第に剥げ落ちてきて、ラスターの意義がなくなってしまうので、大事な客をもてなすときにだけ使って、普段は壁に飾っておいたそうです。建築で壁面タイルなどにも利用されています。特にアルハンブラ宮殿が有名です。
タイル11世紀から12世紀にかけて、セルジューク朝のペルシャでは、モスクを飾るために多種多様な陶器が生産されるようになりました。色も青や藍、緑だけでなく、黄色、赤、黒、茶色と増えていき、何種類ものタイルを所定の形に切り刻んで集成するというモザイクがつくられました。13世紀から14世紀には、星型や十字型、花や鳥を文様化した鮮やかなタイルもつくられました。
青磁
15世紀のエジプトでは、透明度、うわぐすりなどの面で中国技法の模倣に成功し、イスラム青磁を大量に生産しました。

イズニック

16世紀のオスマントルコでは、鉄分の多いアルメニア粘土による赤色の顔料が加わり、イズニックを中心に独創性に富んだ陶器が生産されています。

Saturday 5 August 2017

モハメッドの生涯

ムハンマド(マホメッド)の生涯
ムハンマドは西暦570年ごろサウジアラビアのメッカで交易商人の子として生まれました。当時のメッカは南アラビアと地中海を結ぶ交易路の中継地として栄えていました。街には各部族が独自の神々を奉るカーバ神殿があり、アラビア各地から巡礼者が訪れる宗教都市でもありました。
幼くして両親を亡くしたムハンマドは叔父に引き取られ、ラクダの世話や使い走りをして成長しました。仕事で得た報酬は叔父の家に納めるか、貧しい人々に分け与えました。彼は仲間に信頼されて、25歳の時には隊商のリーダーになりました。ムハンマドはそのころ年上の裕福な女性交易商人ハディージャと結婚します。
40歳までムハンマドは隊商の一員としてシリアまで出かけたり、町にいる時はカーバ神殿で宗教儀礼を欠かさない平凡な市民でした。生活は安定していましたが、生まれた3人の息子は次々と亡くなりました。まじめに生きているのに子供を奪われる不幸、貧富の差が激しいメッカの社会の矛盾、多神教への疑問、ムハンマドの悩みは尽きませんでした。

610年ごろ、ヒラ-山の洞窟で思索にふけっていると、突然、神の使いの声が聞こえました。ヒラ-山から逃げ戻ったムハンマドに、妻ハディージャはその声の主が唯一絶対の神アッラーに使わされた大天使ガブリエルだと断言しました。妻に励まされたムハンマド゛はその後も洞窟で大天使の声に耳を傾け続けました。「アッラーのみが唯一の神であり、アッラーの前ではすべての人間が平等だ」という言葉を完全に理解できるようになったころ、ムハンマドは預言者として生きることを決心しました。
啓示から3年後にムハンマドは本格的な布教活動を始めます。メッカの人々が古来崇拝してきた神々と、町の繁栄を担ってきた支配者や商人を否定する教えは人々に無視されましたが、それでも貧しいものたちを中心に彼の言葉に耳を傾ける者が現れました。信者の数が増えてくると、今度は暴力による迫害が始まりました。619年、追い討ちをかけるようにムハンマドの妻と叔父が相次いで亡くなります。
悲嘆にくれたムハンマドはまた神の声を聞きます。そして大天使ガブリエルに導かれ、メッカからエルサレムは天馬で飛び、神々が創造した7つの天国を巡り、アブラハム、モーゼ、イエスというかつての預言者たちと出会う夢を見て、神の存在と自分の使命を再確認します。
622年ムハンマドは信者と迫害が続くメッカからメディナへ移住しました。(ヒジュラ暦と呼ばれるイスラムの暦はこの年を紀元にしています。1年354日、一日の始まりは日没からで、月と季節は毎年ずれていきます。)メディナでは、最初のモスクを建造して、信者の共同体(ウンマ)を建設しました。当初の信者は150人ほどでしたが、部族間の内戦を収め、政治的手腕を発揮します。
624年には戦闘的リーダーとしてメッカの軍隊と戦います(ジハード)。戦闘の間にムハンマドは周辺の土地を征服、630年にはムハンマドの軍隊は1万人の大軍になり、ついにメッカも征服します。彼はメッカの人々にアッラーのみを崇拝することを誓わせ、カーバ神殿の中に神として奉られていた偶像をすべて破壊しました。そしてメッカはイスラム教の聖地となりました。(現在カーバ神殿は黒い布で覆われ、中にはムハンマドが置いたといわれる黒い石がはめ込まれています。信者は一日5回、この神殿に向かって礼拝します。)
632年6月ムハンマドは亡くなります。預言者は死んだ場所に葬られるとの神の言葉に従い、ムハンマドの遺体はメディナに埋葬されました。現在その場所にはモスクが建てられています。
ムハンマドが没するとアラブ部族は次々と離反しイスラム共同体は解体の危機に瀕します。しかしカリフ(後継者)たちによって、離反者を討伐するとともに、アラブ部族のエネルギーをイラクやシリアなどへの征服活動を振り向け、東ローマ帝国を破ってシリアとエジプトを奪い、ついにはササン朝ペルシャを滅ぼし、領土を併合します。
そこに新しいイスラム帝国(ウマイヤ朝)が建設され、ペルシア文化とビザンチン文化を継承したイスラム独自の華やかな文明が形成されていきます。8世紀にアッバース朝ができる頃には、イスラム世界はアフガニスタン、イラン、イラク、シリア、エジプト、北アフリカを経てスペインにまで広がりました。

Friday 4 August 2017

イスラム教

コーラン (イスラム教聖典)
ムハンマドが初めてアッラーの啓示を受けてから死ぬまでの約23年間にアッラーが彼に下しつづけた啓示が収録され、ムハンマドの没後19年たってまとめられました。114章、6240節からなり、精神面や実生活面において信者が従うべき道が記されています。
シャリ-ア(イスラム法)

シャリ-アはコーランやスンナ(預言者の言行)さまざまな前例を基礎にして9世紀アッバース朝最盛期に体系化されました。イスラム教徒の日常生活全般を規制し、彼らの信仰そのものを実践強化する義務も課しています。

ワーシブ(義務)
 
信仰告白
「アッラーのほかに神はない。ムハンマドは
その使徒である」ことを常時告白する。  

礼拝
毎日、暁、正午、午後、日没後、
夜の5回メッカに向かって礼拝する。
金曜日の正午に大モスクで集団礼拝する。

喜捨
貧しい人に施しをする。

断食
ラマダン月の1ヶ月間、日の出から日没までの
飲食や快楽を禁じる。
 
巡礼
一生に一度は聖地メッカへ巡礼を行う。

ハラ-ム(禁止された行為)

殺人、傷害、窃盗、姦通、中傷、飲酒、賭博、
飲酒、利子を取ること、豚肉を食べることなど。

マンドゥーブ(実行することが望ましい行為)

割礼
生後7日目から17歳までに男性は亀頭を覆う
包皮すべてを切除する。

結婚
平等に扱う条件で、男性は4人まで妻帯できる。

貨幣の統一

領土が広がるにつれ征服地の旧ササン朝ペルシア領(イラン・イラク)ではディルハム銀貨、旧ビザンチン帝国領(エジプト・シリア)ではディナ-ル金貨がイスラム貨幣の2本柱となり、7世紀末にはアラブ貨幣の鋳造が始まりました。

やがて偶像崇拝禁止の教えが徹底すると、肖像入り貨幣は姿を消し、発行者であるカリフの名とコーランの聖句が刻まれるようになります。数世紀もの間この形態は引き継がれ、イスラム教国ではどこでも使用することができました。伝統の中でデザインはさまざまに変化し、四角、葉形、星形の枠がイスラムコインの重要な装飾要素になります。

12世紀になると十字軍の影響で、宗教的制限から脱却した、シリア、トルコ、イラクの一部で、図像があるコインも発行されています。インドのムガール帝国では国王像がコインに表されています。

言語の統一
コーランの言葉はアラム語から派生したアラビア語です。イスラム帝国建国当初は租税の徴収をはじめ地方行政はアラム語、シリア語、コプト語などで行われてきましたが、コーランの言語であるアラビア語に順次統一されていきました。現在、イスラム世界では、どの国の人でもアラビア語を読みことができます。

スンナ派とシーア派

ムハンマドのいとこで娘婿であったアリーが暗殺され、ムアーウィヤによってダマスクスを都としてウマイヤ朝を開くと、アリーの支持者は彼の子孫をカリフの位につける運動を始めました。シーア派とスンナ派は教義や実践的義務の解釈でも多少違う点があるようですが、最大の相違点はシーア派がイスラム世界の指導者はアリーの子孫でなければならないと主張することです。現在シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%程度で、大多数はスンナ派に属します。

クルド族

紀元前2000年から記録に表れる古い民族で、現在では主としてイラク・イラン・トルコの3ヶ国に住んでいます。総数600万人といわれていますが、歴史的には絶えず少数派として圧迫されてきた民族です。エジプト・アイユーブ朝の創始者で反十字軍の英雄のサラディンは北イラクのクルド族出身者です。

Thursday 3 August 2017

イスラム圏の工芸

陶器/タイル
8世紀後半頃から、うわぐすりに硝酸銀や硫化銅などの顔料を用いて、黄金色や赤銅色を出したラスター彩陶器が作られます。皿や鉢などに人物、鳥獣、草花、アラベスクなどが描かれました。アラベスクとは植物文様をさらに抽象化したものです。また、書体デザインも使われました。
9世紀のアッバース朝期では、中国から大量に輸入された陶磁器の影響を受けて、イスラムの白地青彩絵陶器が生まれました。
11世紀から12世紀にかけて、セルジューク朝のイランでは、モスクを飾るために多種多様な陶器が生産されるようになりました。色も青や藍、緑だけでなく、黄色、赤、黒、茶色と増えていき、何種類ものタイルを所定の形に切り刻んで集成するというモザイクが創られ、13世紀から14世紀になると星型や十字型、花や鳥を文様化した鮮やかなタイルも造られました。
15世紀のエジプトでは、透明度、うわぐすりなどの面で中国技法の模倣に成功し、イスラム青磁を大量に生産しました。
16世紀中頃のオスマントルコでは、鉄分の多いアルメニア粘土による赤色の顔料が加わり、イズニックを中心に独創性に富んだ陶器が生産されています。
絨毯
オリエントでは古くから織物が盛んでした。アッバース朝時代にはバクダッドやダマスカスを中心に繊維産業が発達し、各地で衣類用織物や敷物用織物などが生産され、世界中に輸出されました。染めには植物染料が用いられ、青はアイ、赤はアカネ、黄色はサフラン、紫はオリーブからとりました。
ペルシア絨毯は、11世紀、セルジューク朝時代に発達し、動物、狩猟、草花などの装飾を主題としています。

トルコ絨毯はアナトリア地方で織られ、幾何学文様を特徴としています。16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで好まれ、トルコから相当量が輸出されています。

真鍮製アストロラーべ(天体観測儀)
イスラム社会では、礼拝の時刻と方向を知るために用いられるアストロラーべは非常に重要なものでした。

金属細工

ササン朝ペルシアの時代から打ち出しや彫りの技法を巧みに使い、皿や水差しなどに架空の動物や狩猟の図などを描いていました。象嵌は地金となる金属(おもに真鍮)の表面に文様に従って他の目立つ材料(金、銀、銅)を埋め込む技法で、イスラムの金属細工技術の中でも高度な技術が要求されました。12ー13世紀ペルシアで発達し、ルネッサンス期のイタリアに伝わっています。

ガラス

ガラスの歴史は紀元前3000年ごろまで遡ると考えられています。古代メソポタミアで高度にガラスの生産が発達していたことを示す製法秘伝書(楔形文字で刻まれた粘土版)が発見されています。

はじめは型を使用して1個1個製品を作っていましたが、紀元前1世紀中ごろにローマで吹きガラス技法が発明されたことによって、あらゆるガラス製品が作り出されるようになりました。

やがてガラスはイスラム世界の中心的な産業として発展し、耐熱性の医療用器具や照明器具も作られるようになり、エナメル彩色やラスター彩色なども発展しました。
マルムーク朝のエジプトでは、モスクのランプのために金張りのガラスのランプが大量に製作されました。

Wednesday 2 August 2017

アラビアン・ナイト

アラビアン・ナイト
アラビアン・ナイトは、長短約260の物語から成るといわれ、時代は紀元前から中世までと長期にわたり、舞台もアラビア半島、メソポタミアを中心に、西はスペイン、東は中国、南はアフリカまでと広大です。多数の作者の手を経て、16世紀始めには現在の形に整えられたと思われ、18世紀にフランス人のガランによってヨーロッパに紹介されて、世界的に有名になりました。
有名なアラジンは、ハールーン・アラシードというアッバース朝第5代カリフがモデルで、バグダードの町を歩き回り、愉快な話、珍しい出来事を伝えています。この時代のバグダードの宮殿は美しく飾られ、詩人や歌姫たちがたくさんいました。
もう一人の主役のシンドバードはバグダッドの商人でチグリス河口の町バスラから船出して、途中何回も嵐にあったり、奇妙な出来事に巻き込まれたりしながら、奇跡的に助かって、7回も航海を繰り返すという冒険話です。

Tuesday 1 August 2017

イスラム教文化

アラブ商人
イスラム教徒の隊商は中国、中央アジア、西アフリカなどを往復し、商船はインド洋と地中海を自由に航行しました。香辛料、薬品、金、銀、銅、塩、象牙、木材、絹織物、陶磁器を運んできただけでなく、中国起源の羅針盤、製紙法、火薬などをヨーロッパに伝えました。
ちなみにアラビア数字と呼ばれるものは、実はインド数字で、十進法とゼロの概念もアラビア経由でヨーロッパに伝わったものです。

ハレム
6世紀アナトリアの小国だった時代に、統治者の妻が敵に奪われ辱めを受けた教訓から、トルコの歴代統治者(スルタン)たちは、正妻を定めない掟になっていました。スルタンたちは世継ぎを生ませるために領地から美女を集め、女の園ハレムを作り、そこに出入りできる男性はスルタンただ一人でした。ハレムには去勢された役人に管理された約300人の女たちが、スルタンの目を引くことだけを考えながら身を飾り暮らしていました。

コーヒー
コーヒーの原産地はエチオピアで、ヤギがその実を食べて興奮するのを見た人間が真似したそうです。それをアラビアに伝えたのはイスラムの修行僧だそうですが、ムハンマドの時代にはまだ伝わってなく、イスラムの教典にはコーヒーについて何も触れていません。アラビア人たちは始めコーヒーの果皮や種子をそのまま煎じて飲んでいましたが、すぐに焙煎した後の煮汁を取る方法を会得しました。飲酒の許されないイスラム教徒の間では日常生活に欠かせない飲み物となりました。イエメンのコーヒーはモカの名のもとにトルコ、ジャワ、ブラジルにまで栽培が広まりました。

ドラッグ (宗教では禁じられていません)
阿片はケシの未熟果に傷をつけ、にじみ出る乳液を取り、これを干して固めたのが阿片です。モルヒネを含み、鎮痛などの薬効のほか、あらゆる精神不安からの解法のために用いられてきました。水パイプを通して吸引されます。
ハシシュはインド大麻の花穂の部分から採取した樹脂の塊がハシシュで、花の咲き始めた草頂部を刻んだものがマリファナです。加熱によってテトラヒドロカンアビノ-ルという成分を生じ、精神的緊張の解除を生じます。パイプにつめ、火をつけて吸います。
カートはイエメンではコーヒーと同じ畑ににカートが栽培されています。この地方の男性たちはカートの葉を噛むか、煎じて飲んでいます。成分のエフェドリンは覚せい剤メタンフェタミン(ヒロポン)に近く長い間には中毒の危険もあります。昔は局地的にしか用いられませんでしたが、最近では冷蔵によって遠くに運ぶことが可能になり、国際問題になりつつあります。

物乞い
コーランは貧しい人たちへの施しを義務付けています。信者は貧しい者に施しをしなければなりません。その義務を果たすためには、貧しい者が存在しなくてはなりません。ですから、石油収入などで裕福になったアラブの国の政府が、乞食撲滅を呼びかけても、市民の協力は得られません。
乞食の方も「自分は貧しいものであり、施しを受ける権利がある」と思っています。プロの乞食はシーア派のモスクでは始祖アリーを賞賛し、別のモスクではそのモスクが属している法学派の始祖を大いに褒め称え、礼拝にやってくる信者からいかにたくさんのお金をもらうかを考え、テクニックを磨きます。
オスマン帝国時代には、他の職人ギルドと共に完全にムスリム社会の一部に組み込まれ、売春婦と並ぶ世界最古の職業として認められています。

タワー橋

1894年に造られた跳ね橋で、中央部分は90秒で八の字に開閉する跳ね橋です。ネオゴシック様式のタワーは、隣のロンドン塔の雰囲気に合わせてデザインされたそうです。 19世紀、テームズ川を通って一週間に150隻の船が。世界一忙しい貿易都市ロンドンに入ってきました。当時は海...