稲はもともと東南アジアでとれたものですが、日本へは紀元前2世紀ごろ朝鮮南部から九州北部に伝わりました。弥生時代には近畿地方から、関東地方、東北地方まで広まりました。日本全土が農耕社会になり、計画的に食料を生産するようになりました。穀物は高床式の倉庫や貯蔵穴に保管されました。治水、灌漑など集落による共同作業も発達します。集落内に貧富の差が生じ、集団内の生産の指導や他集団との交渉などをする首長が現れ、有力集団の首長は支配者としての性格を強めていきました。
このころ青銅器と鉄器が同時に伝わりました。鉄器は実用に使われ、農具や工具が木製・石製から鉄製へと変化します。青銅器は主に実力者の権威をあらわすもの、祭器や装身具として使われました。
鏡
北九州を中心に銅剣と銅鉾(紀元前100年ころのもの)
銅鐸 和歌山 紀元前200年ー20年
このころ青銅器と鉄器が同時に伝わりました。鉄器は実用に使われ、農具や工具が木製・石製から鉄製へと変化します。青銅器は主に実力者の権威をあらわすもの、祭器や装身具として使われました。
鏡
北九州を中心に銅剣と銅鉾(紀元前100年ころのもの)
銅鐸 和歌山 紀元前200年ー20年
銅鐸 和歌山 (20-250年)
弥生式土器 佐賀と愛知 100-250年
高温で焼き上げた薄手で赤褐色の硬い土器です。模様も簡単になり、素朴な感じですが、ろくろを使うようになったので、形も整い、たくさん作られるようになりました。
石製紡錘車や木製の織機を使って原始的な織物が発達しました。
高温で焼き上げた薄手で赤褐色の硬い土器です。模様も簡単になり、素朴な感じですが、ろくろを使うようになったので、形も整い、たくさん作られるようになりました。
石製紡錘車や木製の織機を使って原始的な織物が発達しました。
西暦57年に「倭」の国王の使者が後漢の首都洛陽に派遣され、光武帝より金印を賜っています。り九州北部の有力者が中国と直接交渉を持ち、外交的に認知されていたことが分かります。古代の中国人は日本のことを「倭」と呼んでいました。「邪馬台国」というのも、日本人が「ヤマト」と呼んでいた国の、中国側当て字でした。
まだ、このころの日本には文字はなく、日本側の記録がないため、この時代の日本史は中国の歴史書を基に作られています。卑弥呼が消えたころ中国は戦国時代に入り、その後約150年間、日本に関する記録が中国の歴史書から姿を消しますが、日本ではその間に大和朝廷による統一が進められていました。
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